日本vsモンテネグロ「100年戦争」の真実と、侍を倒した英雄サイチッチの謎

「日本は2006年まで、ある国と戦争状態にあった」

平和国家として歩んできたはずの日本が、実は約100年ものあいだ、宣戦布告を取り下げていない国がありました。その国とは、東欧の「モンテネグロ」です。

日露戦争の時代から現代まで続いたこの奇妙な「100年戦争」には、ロシア兵として参戦し、「日本の侍と一騎打ちをして勝利した」と語り継がれる一人の英雄、アレクサンダル・レクソ・サイチッチの存在があります。

しかし、近代兵器で戦った日露戦争の戦場で、本当に「刀を使った一騎打ち」など行われたのでしょうか?

今回は、国際法上の珍事である日本とモンテネグロの関係と、英雄サイチッチの伝説に残る「謎」について、史実をもとに検証していきます。

2006年まで戦争中だった?日本とモンテネグロの奇妙な関係

きっかけは「日露戦争」への宣戦布告

1904年、日本とロシアの間で日露戦争が勃発しました。

当時、モンテネグロ公国はロシアと非常に親密な関係にありました。ロシアからの援助を受けていたモンテネグロは、恩義に報いる形で日本に対して宣戦布告を行います。

あくまで「義理」による参戦だったため、モンテネグロ軍が国軍として日本に攻め込んでくることはありませんでしたが、満州の戦場にはモンテネグロからの義勇兵が派遣されていました。

書類上、この時点で日本とモンテネグロは「戦争状態」に入ったのです。

なぜ講和条約が結ばれなかったのか(国家の消滅と独立)

1905年、ポーツマス条約によって日露戦争は終結します。

日本とロシアの間では講和が成立しましたが、ここで一つの手違いが起きました。

講和会議の場にモンテネグロの代表がいなかったため、モンテネグロとの講和条約が結ばれないままになってしまったのです。 さらにその後、第一次世界大戦を経てモンテネグロは「ユーゴスラビア」の一部として併合され、国家自体が一時的に消滅してしまいました。

国がなくなってしまったため、「戦争状態を終わらせる手続き」をする相手もいなくなり、宣戦布告は宙に浮いたまま約100年が経過してしまいましった。

100年越しの「休戦」が生んだ外交上の珍事

2006年にモンテネグロはセルビア・モンテネグロから分離独立を宣言し、再び一つの国家として復活しました。

日本政府はモンテネグロの独立を承認し、外交関係を樹立することになります。 この時、外交官や歴史好きの間で話題になったのが「あれ? 日本ってまだモンテネグロと戦争中じゃないか?」という事実です。

実際には、日本政府は2006年の国会答弁などで「宣戦布告はあったが、戦闘実態がないため戦争状態にはなかった」という公式見解を示しています。

そのため、日本から届けられたのは「戦争の終了」を告げる文書ではなく、あくまで「独立国家としての承認」と、特使派遣による友好のメッセージでした。

しかし、これによって長年のあやふやな関係に区切りがついたことは間違いありません。

モンテネグロの英雄「アレクサンダル・サイチッチ」とは

実際に日本兵と剣を交えたとされる人物がいます。それがモンテネグロの英雄、アレクサンダル・レクソ・サイチッチ(Aleksandar Lekso Saičić)です。

モンテネグロからやってきた義勇兵

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/sr/4/4e/Aleksandar_lekso_saicic.jpg

サイチッチは1873年生まれ。彼は単なる荒くれ者ではなく、多言語を操り、剣術や馬術に長けたエリート軍人でした。

日露戦争が始まると、彼は義勇兵部隊の指揮官として満州へ赴きます。彼の卓越した剣技はロシア軍内でも有名で、兵士たちの士気を高める存在だったと言われています。

語り継がれる「日本の侍」との一騎打ち伝説

ある日のこと、日本軍とロシア軍が対峙する最前線で、日本軍から一人の兵士が進み出てきました。

彼は刀を掲げ、「誰か我と一騎打ちをする者はいないか!」と決闘を申し込んだのです。 名乗りを上げたのがサイチッチでした。

両軍が見守る中、馬に乗った二人の剣士が激突。激しい斬り合いのうえ、サイチッチのサーベルが日本兵を捉え、見事に勝利を収めました。 この勝利で勲章を授けたとされています。

【検証】サイチッチが倒したのは本当に「侍」だったのか?

非常にドラマチックな話ですが、少し冷静になって考察してみる。

日露戦争は機関銃や大砲が主力となった、世界初の大規模な「近代戦」です。そんな戦場で、戦国時代のような一騎打ちが本当に行われたのでしょうか?

近代化された日本軍に「刀で戦う兵士」はいたのか

まず「侍」という言葉について検証します。
明治維新を経て、日本国内では廃刀令が出され、身分としての「侍(武士)」はすでに消滅していました。日露戦争当時の日本兵は、全員が近代的な訓練を受けた「軍人」です。

歴史資料と伝説の食い違いを考察する

では、公式な「決闘」はあったのでしょうか? 残念ながら、日本側の公式記録には「敵将との一騎打ち」という記述は見当たりません。近代戦において、司令官が許可する可能性も低いでしょう。

しかし、以下のようなシチュエーションであれば、「事実上の決闘」が起きた可能性は十分にあります。

  1. 偵察中の遭遇戦 お互いの部隊が不意に鉢合わせし、指揮官同士が至近距離で刀を抜かざるを得なかったケース。
  2. 塹壕戦での乱戦 日露戦争では、敵味方の距離が非常に近い塹壕戦が行われました。弾が尽きた後の白兵戦で、剣術の達人同士が対峙する瞬間があったかもしれません。

サイチッチは長身で、リーチの長い西洋のサーベルとフェンシングのような突き技を得意としていました。対する日本刀は「斬る」ことに特化しています。 「リーチ差」と「戦法の違い」という観点から見ても、初見の西洋剣術に日本人が苦戦し、サイチッチが勝利したという結末にはリアリティがあります。

youtubeの動画はセルビアの公共放送になります。

英雄アレクサンダル・レクソ・サイチッチについてここでも触れられています。

それでも彼が英雄である理由(現地での評価)

史実の細部は不明ですが、重要なのは「モンテネグロの人々が日本兵をどう見ていたか」です。

彼らの伝承において、日本兵は「弱敵」ではなく、「恐ろしく強く、尊敬すべき戦士(侍)」として描かれています。 「あの強大な日本の侍に、正々堂々と勝った」。

この物語は、敵である日本へのリスペクトがあるからこそ、サイチッチの英雄性を高めるエピソードになっています。

参考資料

モンテネグロの歴史・文化をアーカイブしている公式サイト「Montenegrina」に掲載された、歴史家 ジュロ・バトリチェヴィッチ博士 (Dr. Đuro Batrićević) の記述が主な出典です。

まとめ:幻の戦争が結んだ、不思議な「縁」

今回解説した「日本とモンテネグロの100年戦争」と「英雄サイチッチの伝説」について、ポイントを振り返ります。

100年の空白: 日本とモンテネグロは、事務手続きの不備により、1904年から2006年まで国際法上の「戦争状態」にあった

決着: 2006年のモンテネグロ独立承認と同時に、日本政府は「戦争の終了」と「外交関係の樹立」を確認。長年のねじれ解消を、世界中が「100年戦争の終結」として祝福した

英雄の真実: 英雄アレクサンダル・サイチッチが一騎打ちで倒したのは、当時の日本軍将校だった可能性がある

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