2.26事件、エリート青年将校は「給料」と「格差」に絶望した。遺書が語る20代のリアル【昭和100年】

2026年(昭和100年+1)の2月26日は、またあの日が巡ってきます。 今からちょうど90年前の1936年(昭和11年)2月26日、未明の東京は記録的な大雪に見舞われていました。

その雪の中、約1,500名もの完全武装した兵士たちが、首相官邸や警視庁を襲撃し、政府要人を次々と殺害しました。日本史上最大のクーデター未遂事件、「2.26事件」です。

教科書では「皇道派の青年将校らが起こした反乱」と一行で片付けられがちですが、首謀者である彼らの多くは、現在の私たちと変わらない20代から30代の若者でした。

彼らは陸軍士官学校を出た「エリート」でしたが、その内実は現代の「ブラック企業の中間管理職」そのものでした。

彼らはなぜ、将来を約束された地位を捨て、逆賊となる道を選んだのか?

そこには、教科書には載らない「給料の安さ」と「絶望的な格差」という、極めて現実的な動機がありました。

昭和100年という節目に、思想や政治的な是非を一旦脇に置き、彼らの「財布事情」と「遺書」という真実の記録から、2.26事件のリアルを紐解きます。

彼らは今の「ミレニアル・Z世代」だった

まず、事件の中心となった将校たちのプロフィールを見てみましょう。彼らは決して、分別のある「おじさん」たちではありませんでした。

平均年齢は20代後半。「係長」クラスの苦悩

処刑された主な首謀者たちの、事件当時の年齢を見てみます。

  • 香田 清貞(大尉): 32歳
  • 安藤 輝三(大尉): 31歳
  • 磯部 浅一(元一等主計): 30歳
  • 栗原 安秀(中尉): 27歳
  • 中橋 基明(中尉): 28歳

彼らの階級は「大尉」や「中尉」になります。

軍隊組織の中では、上層部(将軍クラス)の命令を受け、現場の兵士たち(20歳前後の若者)を直接指揮する「中隊長」という立場でした。

現代の企業で言えば、現場の不満を一身に受け止めながら、上層部の理不尽な経営方針に振り回される「係長」や「課長代理」クラスです。

もし当時の陸軍が「現代の企業」だったら?
勤務時間・業務形態 24時間住み込み・滅私奉公
💸
必要経費(制服・PC等) すべて全額自腹(借金必須)
🙇
管理職の責任範囲 部下の借金・家族の貧困も解決せよ
💰
給与(手取り換算) 月20万円以下(昇給ほぼなし)

彼らは、現場を知らない上層部の派閥争い(皇道派 vs 統制派)と、貧困に喘ぐ部下たちの現実との板挟みになっていました。

最も多感で、最も組織の矛盾を感じやすい世代だったのです。

図解:青年将校たちが立ち向かった「構図」
昭和天皇(絶対的な存在)
本来は直結するはずが…
決起部隊
(皇道派)
安藤・磯部ら
現場の中隊長クラス
「貧困を救いたい!」
VS
君側の奸
(政治家・財閥)
高橋是清ら重臣
統制派(軍上層部)
「私腹を肥やす権力者」

※彼らは「天皇と国民の間を邪魔する悪いやつら(君側の奸)」を排除すれば、全て良くなると信じていた。

エリート将校が絶望した「給料」と「格差」

彼らが命を賭してまで変えたかったのは、当時の日本を覆っていた極端な「格差」でした。

ここからは、具体的な「お金の話」をします。

「【比較表】当時の物価と給料

当時の陸軍中尉・大尉の給料は、手当を含めても月額70円〜80円程度でした。

当時の物価と、現代の感覚(約3000倍〜4000倍)で換算してみましょう。

項目 昭和11年の価格 現代の感覚値
少尉・中尉の月給 約 70円 約 25万〜28万円
白米 (10kg) 2円 30銭 8,000円
映画館の入場料 50銭 2,000円
カレーライス 10銭〜15銭 500円
軍服(冬服)一式 50円〜100円 20万〜40万円
軍刀 50円〜数百円 20万〜数百万円

※物価指数および公務員初任給などから独自に換算

軍服は自腹!?借金まみれの将校たち

この表を見て驚くのは、「軍服代の高さ」ではないでしょうか。

現代の自衛隊や警察官とは異なり、当時の陸軍将校は「天皇陛下から階級を賜った名誉職」とされ、身の回りの装備(軍服、軍刀、ブーツ、拳銃など)はすべて自費(自弁)で揃えるのがルールでした。

月給が70円なのに、軍服を1着仕立てるだけで50円以上が飛びます。

さらに、部下の冠婚葬祭への祝儀、上官との付き合いなどで出費は嵩む一方でした。

多くの若手将校は、任官した瞬間に「偕行社(将校クラブ)」などに借金をして装備を整えていました

「エリートなのに、生活は火の車」 これが彼らの偽らざる現実でした。

しかし、彼らを真に絶望させたのは、自分の生活苦ではなく、「部下のあまりにも悲惨な貧困」でした。

東北の飢饉と「娘の身売り」

昭和初期、世界恐慌の余波を受けた日本は深刻な不況下にありました。

特に1934年(昭和9年)の東北地方は冷害による大凶作に見舞われ、農村は地獄と化していました。 「娘の身売り」が日常的に行われ、欠食児童が溢れかえっていました

軍隊に入ってくる兵士(二等兵)の多くは、こうした貧しい農村の出身です。

中隊長である青年将校たちは、部下の身上調査や面談を通じて、彼らの悲惨な実情を毎日聞かされていました。

  • 「実家の妹が遊郭に売られました」
  • 「不作で家族が誰も食べていません」
  • 「姉が身売りした金で、軍隊に来るための汽車賃を払いました」

心ある上司であった安藤輝三らは、自分の給料を削り、部下の実家に仕送りをしていたという記録が残っています。

しかし、いち中隊長の薄給で救える数には限界がありました。

銀座のカフェと「格差」への怒り

一方で、東京の富裕層はどうだったか。

当時は「円本ブーム」や「カフェー」が流行し、財閥や政治家たちは銀座のダンスホールでジャズを聴き、欧米風の生活を謳歌していました。

「陛下(昭和天皇)の民である国民が、娘を売るほど飢えているのに、君側の奸(側近の悪い政治家や財閥)たちが私腹を肥やしている」

部下の絶望を肌で感じていた彼らにとって、この光景は許しがたい「不条理」として映りました。

彼らの動機の根底にあったのは、高尚な政治思想以前に、「仲間を救いたい」「ズルをしている奴らが許せない」という、極めて人間的な怒りだったのです。

【人物ファイル】歴史を動かした3人の若者

2.26事件を理解するために欠かせない、象徴的な3人の人物を掘り下げます。彼らは単なるテロリストではなく、人間味あふれる若者でした。

安藤輝三(あんどう てるぞう)— 部下を愛しすぎた悲劇のリーダー

事件の最大の実力者でありながら、最後まで決起に反対していたのが安藤輝三(31歳)です。

彼は非常に部下思いで知られ、隊員からの信頼は絶大でした。彼のあだ名は「安藤中隊の父親」でした。

安藤は「我々が立てば、必ず逆賊になる(天皇陛下に認められない)」という冷静な視点を持っていました。

しかし、彼の部下たちが「隊長がやらないなら、俺たちだけでやります」と詰め寄ったとき、彼は部下を見捨てることができず、ついに決起を決断します。

「俺がやるからには、半端なことはさせない」

彼は、自身の部下への愛情ゆえに、破滅の道へと引きずり込まれていったのです。

磯部浅一(いそべ あさいち)— 獄中で呪詛を吐いた情念の男

安藤とは対照的に、最も過激に計画を推し進めたのが磯部浅一(30歳)です。

彼は事件以前に、別の事件(陸軍士官学校事件)に関与したとして軍を免官(クビ)になっていました。つまり、2.26事件当時は民間人でした。

彼の真骨頂は、逮捕後に獄中で書かれた『獄中日記』です。

そこには、自分たちの行動を理解しなかった昭和天皇に対する、当時の日本人としては考えられないほどの罵倒と、無念の言葉が綴られています。

処刑されるその瞬間まで、「日本を良くしたい」という想いが歪んだ形で燃え盛っていた人物です。

栗原安秀(くりはら やすひで)— メディアを意識した広報担当

27歳の栗原中尉は、「首相官邸」襲撃という最も派手な役割を担当しました。

彼は決起直後、制圧した首相官邸に新聞記者を招き入れ、自分たちの正当性を堂々と語っています。

「昭和維新の正当性を、国民に知ってほしい」

彼らは自分たちが「テロリスト」ではなく、世直しをする「義軍」だと本気で信じていました

その若さゆえの自己陶酔と、メディアを利用しようとする現代的な感覚を持っていたのが栗原でした。

運命の4日間と「誤算」

2月26日 未明(雪)
決起・襲撃開始
約1,500名の兵士が部隊を出発。「昭和維新」を掲げ、首相官邸、警視庁などを同時襲撃。
※高橋是清蔵相、斎藤実内大臣らが殺害される。岡田首相は押し入れに隠れて生存(義弟が身代わりに)。
2月27日
東京に「戒厳令」発令
政府・軍上層部は当初動揺していたが、昭和天皇が「暴徒を鎮圧せよ」と激怒。
青年将校たちの期待とは裏腹に、彼らは「反乱軍」と認定される。
2月28日
鎮圧命令・包囲
反乱軍を鎮圧するため、戦車や近衛師団が出動し、赤坂・永田町周辺を完全包囲。
一触即発の状態になる。
2月29日 朝
「兵に告ぐ」放送・投降
ラジオ放送とアドバルーンによる投降勧告。
「今からでも遅くないから原隊へ帰れ」
下士官・兵士たちは帰順し、将校たちは拘束される(安藤輝三は自決未遂)。事件は終息。
同年 7月12日
主謀者たちの処刑
非公開の軍法会議により死刑判決を受けた安藤、栗原、香田ら15名の銃殺刑が執行される。
※磯部浅一らは翌年8月に処刑。

1936年2月26日、彼らはついに立ち上がります。しかし、その計画は当初から「誤算」の連続でした。

襲撃の成功と、最大の失敗

彼らは高橋是清(蔵相)、斎藤実(内大臣)、渡辺錠太郎(教育総監)らを殺害しました。

しかし、最大の標的であった岡田啓介総理大臣の殺害に失敗します(義弟を総理と誤認して殺害してしまったのです)。

そして、彼らにとって最大の誤算は、「昭和天皇の激怒」でした。

青年将校たちは、「私利私欲を捨てて立ち上がれば、天皇陛下は必ず我々の真心(赤心)を分かってくださる」と信じて疑いませんでした。

彼らの行動原理は「尊皇(天皇を尊ぶこと)」だったからです。

しかし、昭和天皇の反応は冷淡かつ断固たるものでした。

信頼していた重臣たちを殺された天皇は、「陸軍が鎮圧しないなら、私自らが近衛師団を率いて鎮圧する」とまで言い放ち、彼らを「暴徒」と断定しました。

自分たちが崇拝していた「神」から拒絶された瞬間、彼らの「昭和維新」は精神的に崩壊したのです。

「兵に告ぐ」と投降

2月29日、戒厳司令部は有名なアドバルーンとラジオ放送で投降を呼びかけました。NHKのアナウンサーが涙ながらに読み上げたと言われる放送です。

「兵に告ぐ」
一、今からでも遅くないから原隊へ帰れ
二、抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する
三、お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ。

(昭和11年2月29日 戒厳司令部発表)

この放送を聞き、下士官や兵士たちは動揺しました。

「国賊(国の敵)」とされては、故郷の家族に合わせる顔がありません。

ここで、安藤輝三ら将校たちは究極の決断を迫られます。

「徹底抗戦して死ぬか、投降して法廷で戦うか」。

安藤は、これ以上部下を罪人にしたくないという思いから、兵士たちを原隊へ帰し、自らはピストル自殺を図りました(一命を取り留め、後に処刑)。

弁護人なし、非公開。「暗黒裁判」の真実

事件からわずか数日後の3月4日でした。

政府は緊急勅令(天皇の命令)として「緊急陸軍軍法会議令」を公布しました。これが、彼らを裁くためだけに作られた、特例の法廷でした。

彼らが直面したのは、当時の司法制度の常識を無視した、まさに「暗黒裁判」と呼ぶにふさわしいものでした。

異例ずくめの「3つの禁止」

通常の軍法会議であれば認められていた権利が、彼らには一切与えられませんでした。徹底して「口封じ」を行うためのルールが敷かれたのです。

  • 弁護人なし
    被告人の利益を守る弁護士の選任は一切禁止されました。法律の素人である青年将校たちは、たった一人で検察官と対峙しなければなりませんでした。
  • 非公開(傍聴禁止)
    裁判は密室で行われ、新聞記者も家族も立ち入ることはできませんでした。彼らが最も訴えたかった「決起の趣旨(動機)」が、世間に届くことは永遠に閉ざされたのです。
  • 一審制(上告禁止)
    「やり直し」は認められません。一度判決が出れば、それが即ち「死」を意味する最終決定でした。

磯部浅一の絶望と怒り

リーダー格の将校たちは、逮捕当初、楽観視していました。

「公の法廷で堂々と『昭和維新』の正義を語れば、国民も陛下もきっと分かってくださる」 そう信じていたからです。

実際、直前に起きた別の事件(相沢事件)では、公判での堂々たる演説が世論の同情を集めていました。

相沢事件(あいざわじけん) 1935年(昭和10年)8月12日

陸軍の皇道派将校・相沢三郎中佐が、対立する統制派のリーダーである永田鉄山(軍務局長)を、陸軍省の執務室で白昼堂々、軍刀で斬殺した事件です。この事件の公判(裁判)で、相沢が「国の現状を憂いてやった」と涙ながらに訴えたことで、マスコミや国民が同情した。「至誠(真心)があれば、テロも許される」という空気が生まれ、青年将校たちが「自分たちも決起すれば国民はわかってくれる」と確信する、2.26事件の直接的な引き金となりました。

しかし、軍の上層部はそれを最も恐れました。若者たちの純粋な動機が世に出れば、自分たち(上層部)の過去の失態や、腐敗の実態が暴かれてしまうからです。

獄中の磯部浅一は、この理不尽な裁判の進め方に対し、手記で次のように激昂しています。

「予審も何もない、ただ検察官の調べがあるのみだ」 「我々の口を封じて、闇から闇へ葬ろうとするのか」 「これを裁判と呼べるか! 暗黒の魔女裁判だ!」

結果として、7月5日に死刑判決が下され、そのわずか1週間後の7月12日には刑が執行されました。

彼らは十分な弁明の機会も、家族への別れの言葉を公にする機会も与えられないまま、文字通り「抹殺」されたのです。

これは、法治国家の裁判というよりは、巨大な組織による「事務的な処分」でした。

散りゆく若者たちの真実の言葉(遺書と手記)

事件後、非公開の暗黒裁判を経て、主謀者19名は銃殺刑に処されました。

彼らが最期に残した言葉(遺書・辞世・手記)には、テロリストとしての顔ではなく、一人の人間としての純粋な心が残されています。

磯部浅一の絶叫(獄中日記より)

磯部は処刑される直前まで、日記を書き続けました。そこには天皇への恨み言だけでなく、先に逝く妻への愛情も記されています。

(磯部浅一『獄中日記』より抜粋) 今日の私は、もはや何事も念頭にありません。 ただ一途に、日本国が真に日本国となることを祈るのみであります。 私は、日本国民が一人残らず幸福になるまで、死んでも死にきれないのです。 魂魄(こんぱく)となって、この国を見守り続けます。

安藤輝三の妻への手紙

安藤輝三が処刑前に妻に残した言葉です。彼は自分の死後、妻が苦労することを何よりも案じていました。

(安藤輝三 遺書より要約) 私の死後、位牌は作らなくていい。墓もいらない。 法事もしてはならない。 過去の一切をきれいさっぱり忘れて、あなたはあなたの幸福を求めて生きてください。 それが私の唯一の願いです。

栗原安秀の辞世

栗原は、父に宛てた遺書の中で、淡々と心境を述べています。

(栗原安秀 遺書より) 大丈夫は、ガラスが砕けるように散るべきだ。 瓦となって生き残るよりは、玉となって砕けたい。

まとめ|90年後の日本から彼らをどう見るか

2.26事件の青年将校たちは、現在の法治国家の価値観で見れば、間違いなく「テロリスト」です。

暴力による変革は、決して肯定されるべきではありません。

しかし、彼らが直面していた課題

  • 「どれだけ働いても豊かになれない現場」
  • 「責任を取らない腐敗した組織」
  • 「広がり続ける経済格差」

これらは、令和の日本が抱える問題と、不気味なほど似通ってはいないでしょうか。

彼らは、閉塞感を打破するために「クーデター」という間違った手段を選びました。

昭和100年を迎える今年は、私たちは彼らを単に「狂信的な軍人」として切り捨てるのではなく、同じような社会の歪みが生んだ「時代の犠牲者」としての側面からも、歴史を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。

雪の降る2月26日、東京・渋谷にある「2.26事件慰霊像」の前で、今年も彼らの鎮魂が行われます。

彼らの魂が、今の日本の姿を見て何を思うのか。それは、私たち一人ひとりが考えるべき問いなのかもしれません。

参考資料・出典